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言葉が力を持つとき


僕はセラピストをやっています。



人とつながりをもつので、会話を特に大切にしています。

同時に、会話が一番難しいと感じています。



マッサージは勉強したり実践することで上手になっていくものです。



では、会話も練習すれば…と思いますが、何千何万通りもあるバリエーションを網羅することはできません。



あるいは、交流の経験を積むことでテンポよく会話ができるようになるかもしれません。




でも意図して人の心に残る言葉をとどけるのは難しい。言葉を受け取る方の立場としても、正確に人の意図をとらえることができているか確かめるすべはありません。



聖書に「バベルの塔」の逸話がありますが、言語がバラバラになることによる疎通の困難の起源が描かれています。



逸話は、あらゆる問題の根源的かつ普遍的なテーマをはらみます。



映画『バベル』(Babel)では異なる地にいる異なる登場人物たちが全く違う環境で、全く違う種類の困難にぶつかります。それぞれの登場人物のストーリー全てに通徹されているモチーフは「言葉(こころ)が通じ合わない」悲劇です。


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「あなたは営業トークをしている」

「ビジネスなんでしょ」

「こころにもないことを言って、本当は…」

「他でも同じこと言ってるんでしょ」


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(ぐむっ…、言葉を弄するのを躊躇する…。)



冒頭の文言に戻ります。

「僕はセラピストをやっています。」


セラピストである以上、こう言われるのはしょうがないことです。

きれいごとは言えないのです。



なので、結局しっかり姿勢や態度で示すしかない!と奮い立たせる。



僕は中国語と韓国語を勉強しました。長く外国に住んでいたこともあります。

外国語に真剣に向き合った結果「語学勉強って、あんましイミないな笑」と感じました。

概念言語は、ツールに過ぎないという考えに遅れて至ったためです。



言葉は大事です。でも、

言葉では何とでも言えるものです…



信頼はコツコツと。



「内なるコトバ」は瞳と姿勢で伝えられると信じています。



あお

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