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環世界と祈り

先日、マシュマロにこんな質問を頂きました。



質問:セラピストとして一番心がけている部分はありますか?



下記の3つを回答としてお返事しました。



回答:

①清潔と清潔感を大事にしています。

②「施術的(施す)」より「共同身体性(アメーバ化)」を目指しています。

③元気の押し売りをしないことです。



①は基本的すぎる我ながら凡庸な回答です。

③も私が大事にしている部分ですが、今回は触れません。



今回の主題は②です。

「共同身体性(アメーバ化)」を目指すとはどういう意味か



環世界(ユクスキュル)という概念があります。



すべての生物は、それぞれが固有に持つ知覚によってのみ世界を理解しているので、世界は「主観的」に存在している。つまり、生物/個体によって、まったく異なる世界に生き、主観的「セカイ」体験をしているということを意味します。



ややこしいですね…。



続けます。



人間は情報処理に7割程度を視覚に頼ります。海を泳ぐイルカ、暗闇を舞うコウモリは超音波を以て環境を認識します。犬や猫なら鋭敏な嗅覚を中心に。蝶や蜂は紫外線で花とそれ以外を見分けます。




生物たちの視座を想像し、問いかけることを通じると、独自の生の舞台(主体にとっての現実)が浮かび上がってくるようです。我々(ヒト)が認識する世界が当たり前ではないことがわかります。



上記は、生物/種を跨いで説明をしています。



でも、



僕は、同じ種、ヒトとヒトの間にも同じようなことがあるのではないかと感じています。



自分と他者が同じモノを見て、同じように捉えているかはわかりません。

自分と他者が同じ出来事に対して、同じように感じているかはわかりません。

云々…。



そのように考えると「閉じた世界」にそれぞれが個別に生きているように感じます。



一緒にいるようで、一緒にいない。ひとつになれそうで、やっぱりなれない。



僕は、それは少し、さみしい世界の捉え方に感じてしまいます。



人には共感や共感覚が備わります。



それを内側から呼び覚ますいとなみ。



慌ただしく、苛烈な日常は人に備わる本来性をすり減らし忘却させます。




…前段を下敷きに話しを戻します。



②「施術的(施す)」より「共同身体性(アメーバ化)」を目指しています。



つまりは、「環世界」≒「閉じた(独自の主体)世界」からの離脱。



個体の壁を越えて(感覚的に)アメーバのように他者との境界を失い、



つながろうとするいとなみ。試み。



真につながる…?あり得そうにないですよね。



だから、あると信じて「祈る」のです。

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