
知ることと「わかる」ことは違う。
たくさんの情報が充満した未曽有の世に住む。
ほしい情報は簡単に検索できる。
きっと誰しも「悩み」がある。
頭を抱えて、あれこれ考えを巡らす。
でも、図書館にある山積みの書籍、または膨大なネットの海に僕/あなたが抱く”ありがちな”「悩み」は既に記述されていて、何なら「答え(=解決策)」も様々な抽象度で提示されているはず。先人たちの記憶と記録がある。
人生は観光に似る___。
観光するとき、今やほとんどの人は事前に訪れたいその場所や事物を思い浮かべることができる。例えば、エッフェル塔ってあんな形…。ハワイのきれいな白い砂浜…。浅草にあるトラディショナルなモノたち…。メディアの情報や教科書、ガイドブックを目にしたことがあるからだ。
もう「知っている」はずなのにわざわざ見に行くのだ。
人生が「観光」のようだとして、人生のガイドブック(情報)もどうやらありそうだ。では「似たような悩み」と「答え」の情報がセットで存在するのに、なぜ人は滑稽にも同じことをぐるぐる繰り返すのか。
それはきっと「わかる」必要があるためでは。
人はある種の体験によってしか真の「わかる」実感を得ることはできない。
当事者として成功体験を積んだり、もしくは、手痛い失敗をしたり後悔してみて、はじめて理解することがある。
また「そこ」に至るまでの過程も体験に含まれる。
まわり道やトラブル、思ってもみなかった素敵な出会いも。
「そこ」に行ってみて、
やっぱりこうだったよね~
「そこ」に行ってみて、
思ったのとちょっとちがったね~
体験を通じてわかったことのみが自身の物語として残るのかも。
リアルな体験が「旅」を満たしますように。
あお