
日記は、僕のむかし話から始めます。
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授業中、ノートの切れ端にメッセージを書いて丁寧に折り、離れた席の相手に渡るようクラスメイトに「手紙」を中継させた。
先生に見つからないように無事に届くかドキドキした。今思えば、先生はきっと「ワルイ」生徒の挙動に気づいていただろう。
やり取りしていた内容はすっかり忘れた。でも、手紙の返事の紙切れを開くときの高揚感は脳裏に刻まれている。
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好きなアーティストがいた。
新しいCDがリリースされると、購入していた。楽しみで、いつ店頭に並ぶのかを店員さんに聞きに通った。
CDはケースや付属する歌詞カードなどを含めてデリケートである。細心の注意を払って取り扱い、ケースの開閉は最小限に抑えた。
宝物のように感じていた。
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むかしは、まだエロ本が落ちていた。
自転車に乗って、悪友と街中を散策した。公園、橋の下、廃墟、ゴミ回収所…。
未だ見ぬエロ本を求めて大冒険。気分はお宝を探す海賊だった。
エロ本から受ける刺激は当時の僕にとって強烈だった。
もっと知りたいと渇望した。
同時に未知に対するロマンを感じた。
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終電に乗り遅れ、帰宅するすべがなくなった。タクシーに乗るお金をケチって、友人と公園のベンチで朝を迎えた。話しは尽きなかったし、たくさん笑った。
始発の駅に向かう道の途中、コンビニに立ち寄り軽く洗面した。一緒に飲む炭酸飲料がこの上なく美味しかった。
身体はきつかったけど、朝日は眩しくて、妙な充実感が心を満たした。
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自身の記憶ながら、思い出すとちょっとほっこりとしてしまいます。
先述のエピソードたちは、ひと昔前のちょっと「不便」な時代のお話し。今ではスマートフォンも、サブスクも、自分の車もあって。観たいコンテンツは一発検索。購入品は翌日配送…。
「安全・便利・快適」は好いものです。
また、今後も追及していくべきものかもしれません。僕は、テクノロジーを否定する者ではありません。
ただ、便利や快適だけでは幸せになれないのが人間です。
便利・快適と幸福には、直接の関係がありません。
便利さが打ち消す「趣き」「味わい」「剥き出しの情感」があります。
むしろ、不自由さがあるからこそもたらされる充足感や達成感があるようにも感じます。
そんな人間の感情の「性質」にこそ注目していてこの日記を書いています。
日常に不自由に感じること、手間がかかること、煩わしいことはありませんか。一見、忌避すべきマイナスな事がらたち。
それらがもしかしたら幸せの源泉なのかもしれませんね。
いわゆる合理性や生産性の外側に、大切にすべきものがあると思うのです。
あお