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「わざわざ」セラピストに会いに行く

学校は何をする場所か問うたときに多くの人は勉強をする場所と答えるでしょう。では、勉強ができればいいとして、オンラインで授業を行い、ファイルを授受することで目的は達成しそうです。実際、特にコロナ禍を通じてそれらの方法はわりと一般化しました。




でも、コロナ禍が下火になれば、今でも「わざわざ」学校に通います。「メンドウな」学園祭も復活しています。それは、学校は決して、勉強をしにいくためだけが目的ではなく「学校体験」をしにいくこと全体に価値があるということを示しているように思います。




例えば、効率を考えれば「オベンキョウ」の時間を削いでまでする登下校の時間は無駄です。でも登下校中の思い出は学校体験の一部です。また、夏休みの宿題は学習としての本質的な意味はあまりないように思いますが、宿題の存在(義務)と夏休み(自由)の組が何とも言えない体験を与えてくれます。




そして、性別も出自も学力・体力も違う子どもたちがひとつの教室に集う、この「異様さ(複雑性)」が学校体験の中核なのかもしれません。



僕は学生時代、柔道部に所属していましたが、柔道のノウハウを紹介する「これであなたも柔道マスター」(的な)なるビデオセットが部室にありました。それを見ても一向に技術は向上しないし、当然、力も強くなりませんでした。一方で、鬼コーチによるたった1時間の「愛の指導」に耐えると、確かに身体感覚が変化していきます。




そんな体験の積み重ねが「熱量」の交換をもたらします。熱をもった人間同士の交わりが、作用・影響しあいます。目には見えませんが、この熱量が人の内面的な充実や成長の資源になるのではないかと感じています。



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「わざわざ」学校にいくのが勉強のためだけなら虚無感を感じがちです。



でも、その奥行までを見渡すと分厚い体験質の集合が立ち顕れます。



…。



さて、「わざわざ」セラピストに会いに行くのはどうしてでしょうか。



あお

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